【2024年6月】バス代行輸送が続くJR米坂線の現状

2022年8月の豪雨災害により不通となったJR米坂線。2024年6月現在、今泉駅と坂町駅の間で代行バス輸送が続いています。今回、列車と代行バスを乗り継いで米沢から坂町に向かいました。その様子を詳しくレポートします。

はじめに

JR米坂線は、山形県米沢市の米沢駅から新潟県村上市の坂町駅を結ぶJR東日本の鉄道路線。営業キロは90.7kmで駅数は起点・終点駅を含め20駅ある。

2022年8月、山形・新潟両県を襲った集中豪雨により、橋梁崩落や盛り土流出など計112ヶ所が被災する甚大な被害を受けた。

以後、2年近く経過した2024年6月現在に至るまで、今泉~坂町間でバス代行輸送が続けられている。

米沢から列車で今泉へ

福島8:08発の奥羽本線(山形線)の普通列車に乗り米沢に到着した。今日は日曜日だが駅前は閑散としている。

米沢駅舎

米坂線には過去何度も乗ったことがあるが、最後に全線を乗り通したのは2008年7月、旧国鉄型気動車引退直前の時期であった。最晩年には写真のように国鉄時代の塗装に復元され鉄道ファンの注目を集めていた。

キハ58形気動車(2008年7月21日撮影)
キハ52形気動車(2008年7月21日撮影)

一部の車両はJRから引退後、フィリピン国鉄に譲渡された。このキハ52 122は2024年6月現在も事業用車として活躍しているらしい。

キハ52 122(2008年7月21日撮影)

次の米坂線今泉行は10:29発なので、まだ1時間半ほどある。観光するには時間が中途半端なので、市内を適当にぶらぶらして時間を潰す。米沢の市街中心部も地方都市の御多分に漏れず、空洞化が進み閑散としている。それでも再開発は行われており、真新しい公共施設ができていた。

米沢市街
市内を流れる最上川

さて発車時刻が迫ってきたので駅に戻り乗り場に向かうことにする。米坂線は駅舎からやや離れた乗り場に発着する。当駅の乗り場番号の振り方は独特で、駅本屋に直結する上下本線は1番線、跨線橋を渡った島式のホームは2・3番線となり、1番線と同じホームを共有する米坂線乗り場は4・5番線となる。ちなみに国鉄時代は現在の5番線が1番線を名乗っていた。

米坂線乗り場

列車は既に入線していた。JR東日本の一昔前の標準型気動車キハ110形だ。

キハ110形

10:29定時発車。終着駅今泉は米沢の北に位置しているが、列車は一旦南に向けて走る。米坂線の線路は米沢の市街地を囲むように半周している形だ。

南米沢、西米沢と停車していく。いずれも高校生の利用が多い様子で、駅前には大量の自転車が並んでいた。

南米沢駅

乗客は10名程度。2両編成の車内には空席が目立っている。

車内

列車は北に向けて進路を取り、田園風景の中を快調に走っていく。

羽前小松では数名の乗車があった。東置賜郡川西町の中心部にあり、駅周辺は住宅も多い。また、米沢~今泉間で唯一の行き違い可能駅である。

羽前小松駅

やがて進行右手に赤湯からやってきた山形鉄道フラワー長井線の線路が接近、並走して今泉駅構内へと入っていく。

山形鉄道フラワー長井線の線路が近づく

10:58、今泉に定時到着。残念ながら列車はここから先は走れない。

今泉到着

跨線橋から坂町方を望む。左奥の米坂線の出発信号機は横を向いており使用停止となっている。右手前はフラワー長井線の出発信号機。両路線はこの先白川橋梁までの区間は線路を共用しており、物理的に線路は繋がっているが、出発信号機の進路はそれぞれ自路線のみであり、また米沢・赤湯方は線路がつながっていないため、当駅で路線を跨いで列車を直通運転することはできない構造だ。但し入換標識(線路表示式)は設置されており、駅構内で車両を転線することは可能(実際に臨時列車等で使用された実績がある)。

跨線橋から坂町方を望む
跨線橋から米沢(赤湯)方を望む

当駅はJR社員配置の直営駅で、今となっては貴重な「みどりの窓口」設置駅。山形鉄道の駅務も行う共同使用駅である。

みどりの窓口

余談だが、ここ今泉駅は1914年11月に国鉄長井線(開業当時は長井軽便線、現在の山形鉄道フラワー長井線)の駅として開業。1926年9月に国鉄米坂線が部分開業し当駅に乗り入れる形となった。この歴史的経緯から、1988年10月に長井線が第三セクターの山形鉄道に転換されるまでは、当駅の所属路線は米坂線ではなく長井線であった。

代行バス乗車

次の坂町行の代行バスは11:20の発車予定である。小さな駅前広場には「JR代行バス」のステッカーが掲示された「サイトシーイング蔵王」の貸切バスが停車していたので、これがそうなのかと思い乗務員に尋ねたところ違うとの返答。しばらくするとどこかに回送されていった。

サイトシーイング蔵王の貸切車

駅前には小さな旅館が2軒あるのみ。このような昔ながらの駅前旅館は少なくなってきた。

今泉駅前

やがて見慣れたNマークのバスがやってきた。新潟交通グループの貸切事業者「新潟交通観光バス」の車だ。こちらも代行バスのステッカーが掲げられている。

新潟交通観光バスの貸切車
駅前広場に停車中

駅前には案内する係員はいない。そのまま運転士に乗車券を見せてバスに乗り込む。駅係員は代行バスにはタッチしていない様子だ。

車内は横4列の一般的な貸切タイプの座席が並ぶ。最前列の席に座ることができた。

シート

11:20、定刻に発車した。乗客は筆者を含めて4名ほどである。

今泉を発車

米坂線は国道113号とほぼ並走しているが、今泉からしばらくの区間は線路と国道は離れているため、なるべく線路に近い県道や市道・町道を右に左に曲がりながら進んでいく。

今泉-荻生間

時折線路と並走・横断する場面もあり、錆びついて草が生え放題の痛々しい線路が見える。

萩生駅付近にて

代行バスであるため、駅以外の場所では停車しない。しかし駅前までバスが乗り入れる場合と、スペースの都合上から駅付近の道路上に停車する場合がある。羽前椿駅は駅舎の前までバスが入る。

羽前椿駅

羽前椿を通過後、道の駅付近から国道113号に入る。地域間を結ぶ幹線道路だが流れは良い。新潟と山形を結ぶ高速バスもこの国道を走る。

国道113号を走る

最上川水系と荒川水系の分水嶺となる宇津峠を長いトンネル(新宇津トンネル)で駆け抜ける。

羽前沼沢は駅前に大型バスは入れないため、国道上の駐車帯がバス停となっている。ここで時間調整のためしばし停車。

羽前沼沢駅停留所

このあたりが大きな被害を受けたようで、被災した線路が何か所もみることができる。路盤が流失し線路が宙づりになっている箇所が痛々しい。

羽前沼沢-伊佐領間にて

伊佐領で住民らしき年配の方が1名乗車。小国まで行くとのこと。続く羽前松岡で1名下車。

やがて開けた地形となり民家が多くなってくると小国は近い。小国町は人口約6千人、面積は東京都23区よりも広い737平方キロメートルで、山形県で2番目に大きな面積を誇る自治体である。

まもなく小国駅

12:16、ほぼ定刻に小国に到着した。白壁の堂々とした木造駅舎が現役。最近改築されたのか、以前よりシンプルなファサードになっていた。

小国駅

小国駅は今泉~坂町間で唯一のJR直営駅。かつては磐梯朝日国立公園に属する飯豊山・朝日岳の玄関口として栄え、JRバスも発着していたが、現在の1日平均乗車人員は僅か68人(2023年)で駅周辺は閑散としている。なお、高速バスは少し離れた役場前に停留所があり駅前には乗り入れていない。

ここで1名ずつ上下車。12:18、駅社員に見送られて定刻に発車した。

小国発車

小国の街を離れると荒川の峡谷に入っていく。赤芝峡と呼ばれる景勝地で、一帯は紅葉の名所であるとのこと。

赤芝峡

狭い谷間を国道と線路がほぼ並走している。どちらも橋梁とトンネル、スノーシェッドの連続で険しい地形をしのいでいる。幹線道路であるため大型車の通行も多いが、道路の幅員が狭い箇所があり大型車同士での離合には気を遣う。

スノーシェッド
米坂線の橋梁

赤芝ダムを過ぎると新潟県に入った。県境を越えて最初の駅は越後金丸で、ここから4駅連続で”越後”の旧国名を冠している。

越後金丸駅停留所

越後金丸駅は金丸集落からはやや離れており駅周辺は何もない。鉄筋コンクリート2階建ての大変立派な駅舎は周辺の環境や利用状況から浮いているような感じもするが、1967年8月の「羽越豪雨」により旧駅舎が流失したため建て替えられたもの。水害に負けない駅にするという当時の国鉄の強い意志を感じる。

越後金丸駅

荒川の美しい景色が続く。

越後金丸-越後片貝間にて

越後片貝を過ぎると峡谷地帯が終わり地形が開けてくる。関川村の中心部に入ると一旦国道を離れ旧米沢街道へと進む。ここは古い家並みが残り風情がある。

関川の旧米沢街道

越後下関に停車。ここは新潟交通の営業所付近が停留所となっており、高速バスや一般路線バスも同じ場所に停車する。

越後下関駅停留所

次の越後大島を過ぎると再び山が迫ってくる。途中の村上市花立地区付近も豪雨により土砂流出が発生し、線路も国道も被災した。現在も復旧作業が続いているが、線路は一部喪失してしまっている様子。

花立付近

花立を過ぎると平野部へと入る。ここまで来ると終点の坂町も近い。坂町を12:55に発車した今泉行の代行バスとすれ違った。こちらの便も乗客は少ない様子。

今泉行とすれ違い

13:04、定刻より若干早く坂町に到着した。4名が下車、うち今泉から乗り通した人は旅行者らしき3名であった。

坂町到着

感想

2023年9月、JR東日本と山形・新潟両県、沿線市町村による「JR米坂線復旧検討会議」が設置され、2024年6月現在も検討が進められている。議論の詳細な中身についてはここでは触れないが、JRは鉄路の復旧に消極的、県・市町村側は鉄路の存続を求めるといった方向で平行線を辿っている様子である。

かつて仙台・山形と新潟を結ぶ急行列車(「あさひ」のち「べにばな」に改称)が米坂線経由で2往復運転され、本路線は東北地方と北陸方面を結ぶ地域間輸送の一翼を担っていた。仙台-新潟間は約5時間10分、山形-新潟間は約3時間半程度で結び、特に山形-新潟間は米沢を経由する遠回りにもかかわらず現在の高速バスよりも速達性に優れていた。

転機となったのは1991年8月、山形新幹線の工事が進み、米沢においてレール幅が異なることになった奥羽本線と米坂線が分断されてしまったため「べにばな」の運転区間が米沢-新潟間に短縮、同時に快速列車に格下げとなった。現在(被災直前)のダイヤでは、羽越本線内のみ快速運転の列車が1往復設定されているだけで、地域間連絡の使命はほぼ高速バスに譲っている格好だ。

今回筆者が乗車した便は、全区間平均で4名の乗客で、大型バスの必要性すら無いような状況であった。この日は日曜日であったので、役所や病院が開く平日はそれなりの利用があるのかと思ったが、代行バスの運転士の話では日中は平日の方が利用者は少ないとのこと。利用の中心は朝夕の学生である。

この状況だけ見ると、既に役目を終えている鉄路をコストをかけて残す必要は無く、既存の高速バスと朝夕のスクールバスのみ運行すればほぼ事足りる。地元の住民としても、鉄路の復活よりも国道の改修を優先してほしいというのが本音かもしれない。

まだ鉄路存廃の方向は決まっておらず、何らかの形で鉄路が復活する可能性も残されているが、仮に鉄路廃止となったとしても、代替交通と既存のバス・鉄道を有機的に繋ぎ公共交通全体の利便性を高めなければ意味が無い。接続の改善、遅延・異常時の連絡体制確立、統一された路線・営業案内、シームレスな乗り継ぎ場所の整備、運賃制度の共通化、予約システムの統一化などなど、やるべきことは山ほどある。得てしてこのような地方公共交通の問題は自治体に丸投げされ、自治体側もノウハウや人材・予算の不足による付け焼き刃的な対処で衰退を加速させてしまうことも多い。何より人の移動は基礎自治体の中だけで完結するわけではないのにもかかわらず、各市町村が個別の施策を展開する矛盾。

この我が国の公共交通に対する構造的な問題を解決しなければ、どんな交通モードであっても衰退の一途をたどることは必至であろう。今回の旅を通じとそんな思いに至った。

鉄道コム

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